岐阜まつり

その歴史は約2000年!?
岐阜市を守護する神々の大祭

岐阜の春に行われるまつりといえば「岐阜まつり協賛 道三まつり」。このうち一般的に「岐阜まつり」と呼ばれているのが、4月の第一土曜、翌日曜に行われる伊奈波神社の例大祭です。伊奈波神社の主祭神は、垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神である五十瓊敷入彦命(いにしきいりのひこのみこと)。稲葉山(現在の金華山)北西部の丸山に祀られたのがその始まりとされ、斎藤道三の手によって現在の場所に遷座して以降も、岐阜市の産土神(うぶすながみ/その土地の守護神)として、篤い信仰を受けています。

岐阜まつりの起源自体は、はっきりとしていませんが、神社の鎮座の時期から察するとその歴史は2000年近く前の太古にさかのぼると考えられます。現在では伊奈波神社、金神社、橿森神社をはじめ多くの神社の例祭が同日に行われるため、この期間に開催される岐阜市内のお祭りを総じて「岐阜まつり」と呼ぶように。2015年には「信長公のおもてなしが息づく戦国城下町・岐阜」の構成文化財として、日本遺産に認定されました。
金華山北西部の丸山にある伊奈波神社旧跡
道三まつり

発祥は大河ドラマきっかけ!
“市民参加型”にこめられた想い

長い歴史を持つ「岐阜まつり」に対し、近代に誕生したのが岐阜市のまちづくりの礎を築いた斎藤道三公を称える「道三まつり」。きっかけは1973(昭和48)年に斎藤道三、織田信長、明智光秀の活躍を描いた大河ドラマ「国盗り物語」の放映が決まったことでした。ドラマのブームに乗って始まったお祭りですが、実はその陰には当時の人々の、地元への矜持と危惧が入り混じった想いがこめられています。

斎藤道三、織田信長の時代に、天下に名を轟かす城下町へと発展した岐阜。しかし大都市への流出が進む昭和中〜後期において家族やまちの在り方が変化する中、人付き合いもだんだんと希薄に。次第に町内の結束力も薄れていきました。これはつまり、この先の祭りの担い手も減るということ、ひいては祭りの存続危機を意味します。
「これでは岐阜の伝統文化の火が消えてしまう…!」
そこで立ち上がったのが商工会議所や地元企業・商店主さんたち。岐阜まつりを盛り立てるため、岐阜まつりに“協賛”するという形で道三まつりをスタートさせました。現在も祭りで担がれる神輿に企業のものが多いのは、こうした理由によるもの。経済の礎を築いた道三のまちを、地元企業やそこに住む人々が一体となって盛り上げる! それは道三が理想とした商業のまち・岐阜の在り方にも通じています。
FOCUS

斎藤道三
美濃の蝮こと戦国の風雲児

自らの主人である美濃守護・土岐頼芸を追放し、美濃平定を成し遂げた「国盗り」と「下剋上」の代名詞となった稀代のカリスマ。稲葉山(現在の金華山)に城を築き、現在の岐阜市である井ノ口の基盤を固めた。油商人にルーツを持つといわれる経済感覚で、自由に商売を行う「楽市・楽座」の概念を、まちづくりの構想にいち早く取り入れたとされる。
斎藤道三のイラスト

略年表

1494年 誕生
1527年 土岐氏の家督争いで、土岐頼芸の守護就任に貢献する
1538年 美濃守護代の名跡を継ぎ、斎藤利政と名乗る
1539年 稲葉山城の改築に着手する
1542年 土岐頼芸を追放し、実質的な美濃の国主となる
1544年 加納口の戦いにて織田信秀・朝倉孝景の軍を撃退する
1548年 娘の帰蝶を織田信長に嫁がせる
1553年 正徳寺にて織田信長と会見する
1554年 家督を嫡男の義龍に譲り、自らは仏門に入って道三と号す
1556年 長良川の戦いで義龍と争い、討死
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1972年 「道三まつり」が始まる
1973年 大河ドラマ「国盗り物語」で平幹二朗さんが演じる。これをきっかけに「斎藤道三」の名が一躍有名になる
1980年 祭りの際にパレードが行われるようになる
2015年 「信長公のおもてなしが息づく戦国城下町・岐阜」の構成文化財として、日本遺産に認定される
2020年 大河ドラマ「麒麟がくる」で本木雅弘さんが演じて話題に。恐ろしくも誇り高い道三像が人気を博す。リアルな斎藤道三等身大フィギュアも注目された

斎藤道三ゆかりの地

常在寺の写真
常在寺
岐阜市梶川町
斎藤道三とその父・長井新左衛門尉が日運上人の縁故を頼ってやってきた、いわば美濃の国盗り始まりの地。道三以降三代の菩提寺として今も親しまれています。寺宝である絹本著色斎藤道三像・斎藤義龍像は国の重要文化財指定。
鷺山城の写真
鷺山城
岐阜市鷺山
斎藤道三が嫡男・義龍に家督を譲った後に隠居して移り住んだとされる城。親子が激突した長良川の戦いの後、廃城となったとされています。標高68mの小山の上からは、長良川を挟んで稲葉山城(岐阜城)もよく見えます。
道三塚の写真
道三塚
岐阜市長良
長良川の戦いで討死した斎藤道三を祀る場所。塚は洪水で度々流されたものの常在寺の日椿上人の手で現在の場所に移され、道三公を偲ぶ人々が今も訪れます。